WP A 研究ペーパーの先行研究 第二モジュール補論。前のモジュールは、金融が解いてきた N 対 N マッチングのロジックを取り入れることを示した。だが労働には、突き合わせる前にもう一段の難所がある ── 人のスキルは暗黙知ゆえ、まず計算可能な形に分解しなければならない。これが長く労働市場のマッチングを阻んできた本当の律速であり、近年ようやく AI が扱えるようになった領域である。ただし、解いたとは言わない。
前のモジュールで、金融が解いてきた N 対 N マッチングのロジックを労働市場へ取り入れること、そして労働には金融になかったもう一段の難所 ── 人のスキルは暗黙知ゆえ、突き合わせる前にまず計算可能な形に分解しなければならない ── があることを見た※。本モジュールは、この分解を扱う。
人と仕事を組み合わせる作業は、三つの工程に分けて見ると、難所の在りかがはっきりする。第一に、分解 ── ある人が何をどの水準でできるのかを、言葉になった形に取り出す。第二に、タクソノミ化 ── 取り出した能力を、互いに比較できる構造化された体系へ整理する。第三に、突き合わせ ── その体系の上で、多数の人と多数の仕事を最適に組み合わせる。
三番目の突き合わせは、前のモジュールで見たとおり、金融がキャピタル・イントロダクションのロジックで解いてきた領域である※。だが、長く労働市場のマッチングを阻んできた本当の律速は、そこではない。第一と第二 ── 人を分解し、体系へ整理すること ── にあった。なぜ、ここが律速だったのか。
律速の根には、人の能力そのものの性質がある。半世紀以上前、ある哲学者は、人の知を「語れる以上を知っている(we know more than we can tell)」と言い表した1。熟練した専門家ほど、自分が何をどうやっているのかを、言葉に尽くせない。能力の多くは、本人にさえ明示されていない暗黙のものとして宿る。
この暗黙の知を、言葉になった形 ── 形式知 ── へ取り出すことを、ひとつの理論は知識創造の中心的な営みとして描いた2。暗黙知を形式知へ変換するこの過程は、長く人と人とのあいだの、時間をかけた相互作用によってなされてきた。注意したいのは、この理論がもともと組織のなかの知識創造を論じたものであり、労働市場全体で個人の能力を機械的に取り出すことを想定していない点である。本稿はその枠を援用しているのであって、原典が労働マッチングを論じたわけではない。
労働経済の側からも、同じ壁が指摘されている。仕事のタスクは、明示のルールに書き下せるものと、「語れる以上を知っている」がゆえに書き下せないものに分かれ、後者こそがコンピュータ化を長く阻んできた3。人を計算可能な形に分解できなかったのは、人の能力の限界ではなく、暗黙知を AI 以前の計算では扱えなかったからである。これは、古くからの人の認知の限界であると同時に、つい近年までの計算の限界でもあった。
分解した能力を比較できるようにするには、それを構造化された体系 ── タクソノミ ── へ整理する必要がある。この体系づくりは、すでに公的・商用の領域で試みられてきた。職業と能力を分類する公的な枠組みが、各国で整備されている4。
だが、人の手で設計するこうした体系には、二つの限界がある。第一に、技術や仕事の変化が加速するなかで、人が定期的に更新する体系は、現実の変化に追いつきにくい。第二に、そもそも体系とは、言葉になった能力ラベルの集合であり、前節で見た暗黙知 ── 言葉にならない部分 ── を、その手前で取りこぼす。近年は、求人や職務経歴の膨大な記録から、体系を AI が下から組み上げ、頻繁に更新する試みも現れている。たとえばある専門サービス向けの人材プラットフォームでは、能力の体系を、ひとつひとつの能力をベクトルとして相互の距離を計算できる空間として構築し、外部の記述から継続的に更新している9。前節でいう「計算可能な形」が、ここでは能力どうしの距離として与えられている。
つい近年になって、状況が変わりはじめた。自然言語で書かれた記述から、能力を取り出すことが、AI で扱える対象になってきた5。とりわけ、言語を扱う近年のモデルは、文脈に依存した複雑な能力の言及を、従来より的確に拾えるようになっている。長く律速だった意味的な分解 ── 暗黙知を含む言葉から、能力を構造化された形へ取り出すこと ── が、はじめて AI の射程に入った。最先端は、ここにある。
だが、ここで線を厳密に引いておく。これは弱点ではなく、本稿の規律そのものである。第一に、意味的な分解が AI で扱える対象になったという質的な転換は、本物である。第二に、しかしその精度は、実用域に接近しつつある段階であって、保証できる水準ではない。現状の評価では、これらのモデルは、教師あり学習の最良手法をなお上回ってはいない5。さらに、先の労働経済の研究自身が慎重で、AI が暗黙知の壁を崩すのは知覚や運動を伴うタスクにおいてであり、抽象的な判断や社会的な文脈を要するタスク ── 能力の意味的な分解はこちらに近い ── には限界が残ると予告している3。
この二段は、現場の実装にそのまま現れる。ある専門サービス向けの人材プラットフォームでは、経歴書からそのまま読み取れる能力が九つか十であるのに対し、体系を介して提示される候補は四十に及ぶ9。AI は、書かれていない隣接の能力までを数倍の幅で掬い上げる ── 被覆の質的な広がりは本物である。だが、提示された候補はそのまま確定されず、人がひとつずつ検証する。最先端が「最良の精度」としてではなく「人が検証するための候補の生成」として現れるのは、このためである。
つまり、AI はこの壁を「崩しはじめた」のであって「崩しきった」のではない。質的な転換は確かにあり、しかし達成の保証はまだない。この二段で読むのが正確である。
ここまでを、前のモジュールと合わせると、構図が見えてくる。
人と仕事を組み合わせる機構そのもの ── 突き合わせの数学 ── は、半世紀以上前にすでに完成していた6※。長く広い労働市場で実装が進まなかったのは、機構が足りなかったからではない。機構へ与える入力 ── 分解され、体系へ整理された能力 ── を、人手では生産できなかったからである。狭い公的領域で、入力がはじめから形式知として整っていた場合にだけ、単純な機構が長年回ってきた7。広い労働市場で同じことができなかったのは、機構の差ではなく、分解の差だった。
近年の AI は、第二・第三の工程 ── 体系への整理と、その上での突き合わせ ── を、データから埋めつつある8。現に、分解から突き合わせまでを一続きで回す実装は、すでに現れはじめている。ただしその多くは、ひとつの組織の内側 ── 自社の人員を自社の案件へ充てる、閉じた配置 ── に留まっており、広く開かれた労働市場で、たがいに利害の異なる多数を中立に突き合わせる段には、まだ架かっていない9。だが、第一の工程 ── 暗黙知を含む言葉から能力を取り出す分解 ── を起点に、体系化、そして突き合わせまでを、開かれた中立の市場で一本につないだ実証は、まだ正面からは見当たらない。中立的な人材マッチングが立つのは、まさにこの未架橋の場所である。AI による分解(本モジュール)と、金融が解いてきたマッチングのロジック(M-2)を、決定論的に橋渡しする。学術がまだ正面から埋めていないこの接合点に、新規性がある。
本モジュールは、広い労働市場で N 対 N マッチングが長く成立しなかった律速が、マッチング機構ではなく、人を計算可能な形に分解することの不能にあったこと、そして近年ようやく AI がそれを扱えるようになったこと(ただし保証できる水準ではないこと)を位置づけた。分解と突き合わせが揃っても、なお残る問いがある。そうして組み合わされた相手が差し出す力は、本物なのか。申告された能力を、相手はどう確かめるのか。次のモジュール(M-3 評判)は、この信頼の問題 ── とりわけ公開された評価がなぜ歪むのか ── を扱う。
全主張に一次資料・学術/公的出典を付す。確=一次・査読/公式。中=確信度中。※=先行研究モジュール参照。確定書誌はドシエ参照。