連載「手放さずに、増やす ── 人生100年時代、大企業人材の選択肢」。第2回は、動きたいのに動かない人が圧倒的多数なのはなぜか、そして自分のスキルが外でいくらなのかを、なぜ本人自身が知らないのか——膠着と情報の壁の機序をたどる。問題を確かめる回。解決策はまだ出さない。
前回、メガバンクを例に「囚われ」の構造を見た。最高値の時期に自分の値段を測る機会がなく、外に出れば損をする設計に囲まれて、動かないことが最も理にかなう——そういう均衡だった。
今回は、その均衡の中にいる人の、もう一歩進んだ場所から始めたい。一度は、転職を考えたことがある人だ。
転職サイトに登録だけはしてみた。スカウトのメールが届くようになった。エージェントと一度、面談もした。あるいは、心が決まらないまま、登録の画面を閉じた。そこまでは行く。多くの人がそこまでは行く。だが、その先で止まる。気づけば一年が過ぎ、いまも同じ机に着いている。
これを、自分の踏ん切りの悪さのせいだと感じている人は多い。本当にやる気があれば動いたはずだ、と。だが本稿が確かめたいのは、それが個人の意志の弱さではなく、構造の問題だということだ。
動きたいと答えた人の大多数が、実際には動かない。その「動けなさ」がどういう仕組みで生まれるのか。そして、そのいちばん奥にある一点——自分のスキルが外でいくらなのかを、なぜ本人自身が知らないのか——を、今回は正面から掘る。
まず、意志と行動のあいだに、どれくらいの隔たりがあるのか。
リクルートワークス研究所が、全国の就業者およそ5万人を毎年追いかけるパネル調査をもとに出した数字は、率直に言って衝撃的だ。「転職したい」と考えていた人のうち、一年後に実際に転職していた人は、わずか13%。残る87%は、希望を口にしながら、一年経っても動いていない1。では、もっと本気の人——実際に転職活動まで始めた人——に絞れば、どうか。それでも、約6割が、その年のうちには転職に至っていない1。母集団を「したい」から「動き出した」へ絞っても、動いたのは13%から約4割に上がるだけで、過半数はやはり動かない。
その背景には、そもそも人が動かない国だ、という土台がある。日本の労働者の平均勤続年数は、およそ12.4年(男性13.8年、女性9.9年)2。アメリカの3.9年と並べると桁が違って見える。ただし、ここは正確に断っておきたい。日本の数字は平均、アメリカの数字は中央値で、厳密には物差しが違う。それを差し引いても、一つの会社に人生のかなりの部分を預けることが当たり前になっている度合いの差は、はっきりと残る。
そういう社会で、40代・50代の転職率は、20代を大きく下回る。ある個人調査では、20代の12%台に対し、40代は6%台、50代は3%台にとどまる3。年齢別の転職率には、個人を対象にした調査と企業を対象にした調査とで無視できない開きがあり、小数点まで言い切れる話ではない。だが確かなのは方向だ。年齢が上がるほど、人は動かなくなる。
動きたいのに動けない。その「動けなさ」は、一つの原因ではなく、三つの摩擦が同じ人の上に重なって生まれている。
一つめは、ロックインだ。年功賃金は後払いの約束で、五十代はその「貸しの回収」局面にある。長く一社に勤めて積み上げた、その会社固有の仕事の進め方や人脈は、社内では高く報われるが、外へ持ち出すと目減りする。だから、いま外に出ることには、回収しそこねる賃金と、捨てる特殊資本という、二重の値札が付く。これは前回掘ったので繰り返さない。動けなさの土台に、まずこれがある、とだけ確認しておく。
二つめは、活動そのもののコストだ。中高年の転職活動は、若い世代よりはるかに長く、重い。ある調査では、40代の転職活動の期間は平均で19週を超え、10社以上に応募した人が3人に1人を超えた4。働きながら、人に知られないように、何十社にも当たり、断られ続ける。その消耗が、踏み出した足を引き戻す。ただし、この活動期間の数字は十年以上前の調査に基づくもので、いまの実感とそのまま重なるとは限らない。それでも、年齢が上がるほど一件の内定までに要する応募数と時間が増えていく、という方向は、現場の感覚とよく合う。
三つめは、入口の年齢の壁だ。前回も触れたとおり、中途採用の求人を観察した研究では、四分の一が明示的に年齢の上限を設けていた5。出口(いまの会社を出ること)の制度がいくらか緩んでも、入口(次の会社に入ること)の側には、年齢という見えない関門が残っている。動こうとした人が最初にぶつかるのは、たいていこの壁だ。
この三つは、どれか一つでも十分に重いのに、現実には同じ一人の上に同時にのしかかる。動きたいのに動けないのは、意志が足りないからではない。三つの摩擦が積み上がった先で、「動かない」が合理的な答えになってしまうからだ。
だが、ここまでの三つは、いわば動けなさの「外側」の摩擦だ。本稿がいちばん掘りたいのは、その奥にある、もっと厄介な一点である。それは、自分のスキルが外の市場でいくらなのかを、本人自身が知らない、という情報の問題だ。
しかも厄介なのは、その値段が「低いから見えない」のではないことだ。本当は高く評価されうる力を持っているのに、それが——市場にも、間に立つ仲介者にも、そして本人自身にも——見えていない。見えないことと、無いことは、まるで違う。
土台にある仕組みは、経済学が半世紀前から「情報の非対称性」と呼んできた構造に重なる。ジョージ・アカロフが中古車市場を例に示した議論がある6。売り手は車の本当の状態を知っているが、買い手は知らない。すると買い手は「どうせ平均的なものだろう」としか値付けできず、本当に良い車も平均値で買い叩かれ、やがて市場に出てこなくなる——情報の偏りが、市場そのものを痩せさせる。
労働市場でも同じことが起きると、経済学者のブルース・グリーンウォルドが示している7。いまあなたを雇っている会社は、あなたの実力を何年もの仕事を通じてよく知っている。だが外の会社は知らない。すると、優秀な人ほど今の会社が引き留めるので、外に出てくる転職者の集団には「引き留められなかった人」が相対的に多く混じる、と外の市場は見越す。そして転職者というプール全体を低めに値踏みする。結果、本当に力のある人まで、その平均値に巻き込まれて安く見積もられる。良い人材ほど、外からは見えにくくなる。
(なお、この「外に出た側」を疑う目は、解雇がめずらしく、しかもしばしば懲罰的な意味を帯びる日本では、欧米よりむしろ強く働きうる8。アメリカのように景気で淡々と人を整理する慣行がある社会と違い、日本で外へ出ること自体に、不要に重い意味が貼りつきやすい。ただし、優秀な人ほど機会を求めて動いていく、という大きな流れそのものは、日米に共通している。)
ここで、公平のために、この見方の限界も書いておく。動けなさのすべてを情報の壁だけで説明するのは行き過ぎだ。前回のロックイン——後払い賃金と特殊資本——だけでも、中高年が動かない理由のかなりは説明がつく9。情報の非対称は、それに重なる二次的な力かもしれない。それでも、この力をあえて取り出すのは、ロックインが「動くと損をする」という損得の話なのに対し、情報の壁は「そもそも自分がいくらか分からない」という、損得を計算する前の段階の問題だからだ。そして、ここにこそ、後から手を入れる余地がある。
では、その「見えなさ」は、具体的にどういう形で起きているのか。現場で見ていると、少なくとも三つの層がある。
一つめは、スキルそのものが言葉になっていないことだ。たとえばIT分野なら、「Java、Python、SQLが書ける」と言えば、何ができる人かが一目で伝わる。スキルが共通の言葉に翻訳されているからだ。だが、長く一社で積み上げた力の多くは、そういう形をしていない。「あの部署とこの部署のあいだを通せる」「この種の交渉なら筋を読める」「あの規制の勘所を外さない」——どれも価値は高いのに、社外で通じる単位に言い表されたことが一度もない。言葉になっていないものには、値段も付きにくい。
二つめは、間に立つ仲介者の側の限界だ。転職エージェントは、需要の多い汎用的なスキルなら、すぐに引き合わせられる。求める企業が常にいて、そこではマッチングのサイクルが回る。だが、需要は限られるが価値は高い、特殊なスキルセットの場合はどうか。そのスキルを正しく理解し、それに合う数少ない働き口をわざわざ探し出すのは、手間がかかり、難しい。だから、そこまではしない——多くの場合、できない。これは誰かの怠慢というより、人の手で一件ずつ仲立ちする仕組みの、構造的な限界だ。価値が高くて希少なスキルほど、かえってマッチングから漏れていく。(なぜ仲介がこういう構造になっているのか、その内側は、続く回で正面から解剖する。)
三つめは、本人自身の枠組みだ。そして、これがいちばん根深い。多くの人は、自分を「いまの肩書き」で捉えている。部長なら、次も部長の口を探す。同じ役職で、同じ広さの責任で。だが、その肩書きには、本当はいくつもの別々の力が束ねられている。
一つ、例を挙げたい。とても高い専門性を持ちながら、英語が話せない、というただ一つの理由で、外資系での活躍は自分には無理だ、と本人が決めてしまうことがある。だが、考えてみたい。あなたは外資系で「同じ部長」として働く必要が、本当にあるのか。たとえば外資系の経理部長という椅子には、十年、二十年かけて積み上げた、その世界に固有の要素が詰まっている——部下のマネジメント、アメリカやロンドンの本社との連携、外資ならではの社内の力学、英語での会議。英語が要るのは、その「部長」という器の部分だ。だが、あなたの専門そのもの——会計の深い知識と判断——は、専門職として立てば、英語の有無とは別に、すぐにでも活きるかもしれない。肩書きで自分を探すと壁にぶつかり、専門で自分を捉え直すと道が開く。本当は価値があるのに、その価値の置き場所が、ほかでもない本人に見えていない。
この三つの層を貫いて、日本固有の事情が一つある。スキルを、市場で通じる言葉に翻訳する仕組みそのものが、まだ育っていないことだ。政府も2024年に、職務と専門性で評価する「ジョブ型」への移行を後押しする指針を出したが、導入した企業ですら、職務の記述と実際の仕事のずれが最大の課題になり、約半数は、能力が職務に満たない場合の処遇の調整にすら踏み込めていない10。自分の力を市場の言葉に変換する物差しが、社会の側にまだ用意されていない。物差しがなければ、自分の値段は測れない。
では、自分が思う自分の価値と、市場が実際に付ける値段とは、どれくらいずれているのか。正直に書く。その乖離を正面から測った公開データを、本稿は見つけられなかった。近いものとしてスキルに関する官庁の調査はあるが、「自己評価と市場価格の差」をそのものとして数値化した調査は、少なくとも公開された形では見当たらない11。これは、この問題が軽いからではない。むしろ逆で、測る物差しがないからこそ、ずれの大きさすら誰も知らない——情報の壁の厚さが、ここにも表れている。
例によって、自分のテーゼに最も効く反論を、自分で置いておく。
「動けない」と言いながら、市場は確かに動きはじめている。50代の転職者数は、ある転職サービスの登録者ベースで、2018年からの数年でおよそ4倍に増えた12。中高年が転職で年収を一割以上増やせた割合も、十年でおよそ16%から27%へと、着実に上がっている13。国の調査でも、転職した人のうち賃金が増えた人の割合(40.5%)が、減った人の割合(29.4%)を上回るようになった14。氷は、確かに溶けはじめている。
だが、ここを取り違えてはいけない。溶けはじめたのは、需要と供給だ。人手不足で企業が中高年を採りはじめ、動いた人の一部が報われるようになった。それは良いことだ。しかし、今回いちばん奥で見た問題——自分の値段が自分に見えないという情報の非対称——は、需給が緩んでも、それだけでは溶けない。
壁を作っているのは需給ではなく、二つの構造だ。一つは、あなたと企業のあいだに立つ仲介者が、企業から成功報酬を受け取る当事者であって、あなたの中立な代理人ではないこと。もう一つは、スキルを市場の言葉に翻訳する共通の物差しが、まだ存在しないこと。
この二つがある限り、市場がどれだけ活気づいても、一人ひとりが「自分は外でいくらか」を中立に知る経路は、開かないままだ。この二つの構造こそ、本連載がこの先で正面から扱うものだ。仲介の構造——誰が、どういう立場で、あなたとの間に立っているのか——は、続く回で一つずつ解剖していく。そして物差しそのものをどう作るかは、連載の後半で考える。
だが、その前にもう一度、視野を引き上げておく。ここまで見てきた膠着も、情報の壁も、それぞれは一断面にすぎない。これらはすべて、戦後の日本がつくり上げた一つの雇用の仕組みから、同じ根で生えている。次回は、その全体像を一枚の地図にする。役職定年も、転籍も、動けなさも、値段の見えなさも——なぜこれらが一斉に、いま軋みはじめているのか。
全主張に一次資料・学術/業界調査を付す。確=一次・公式統計/中=報道・業界調査/—=データ不在を正直に明示。